1月12日、リトアニアのカウナスで開催されていた欧州選手権で2連覇を果たしたフランスのアダム・シャオ・イム・ファ。彼がフリーで競技では禁止されているバックフリップ(後方宙返り)を演じたことが、話題になっている。減点を受けることを知りながら、なぜわざわざこの禁止技を演じて見せたのだろうか。

禁止でもバックフリップを演じた理由「観客のために」

 シャオ・イム・ファがこの技を試合で演じたのは、実は昨年10月の上海トロフィーに続いて2度目のことだ。やはり上海でも優勝したものの2ポイント減点を受けていた。振付師のブノワ・リショーは、こう説明する。

「シーズンの始めに、フリーでバックフリップをやったらどのくらいの減点になるのかチームで検討しました。アダムは常に新しいことに挑戦し、このスポーツを進化させたいと思っているんです」

 欧州選手権のフリーでバックフリップを演じた後、シャオ・イム・ファはこう感想を述べた。

「エキシビションでやるより、フリーでやる方がエネルギーは使います。でも調子が良かったので、試合だったけれど、観客のためにやりました」

“危険な技”として1976年に競技で禁止された経緯

 シャオ・イム・ファがバックフリップを入れたのは、ジャンプを全て終えた後のコレオシークエンスの部分である。それぞれの選手が得意な技、スプリットジャンプやスパイラルなどを入れているが、シャオ・イム・ファはそこにバックフリップを加えたのである。

「減点されることはわかっていたけれど、この技を再び競技に戻して、スポーツをプッシュしたかったんです」

 シャオ・イム・ファは欧州選手権の会見でそうコメントした。

 彼が言うように、実はバックフリップはかつて禁止されていなかった。と言っても合法だった当時、試合で演じた選手は一人だけである。1976年の全米チャンピオン、テリー・クビカが1976年にインスブルック五輪と世界選手権で成功させた後、危険な技として競技では禁止になったのだ。

 だがその後も佐野稔氏をはじめ、ロビン・カズンズ、スコット・ハミルトン、ブライアン・オーサーなど往年のスターたちによってアイスショーのハイライトとして演じられてきた。近年ではカナダのキーガン・メッシング、アメリカのネイサン・チェンなどもエキシビションで見せている。技としては決して珍しくも、目新しいものでもない。

先駆者スルヤ・ボナリーはどう感じているのか?

「見た目ほど危険ではないんです。やるよりも見ている方が怖いかも」とシャオ・イム・ファ。

「フランス風の味をちょっと付け加えたかったんです」

 シャオ・イム・ファの言う「フランス風の味」というのは、スルヤ・ボナリーを意識してのことだろう。彼の前にこの技を競技で演じたのはやはりフランスのボナリーで、1998年長野オリンピックでのことだった。

 フリーでボナリーがバックフリップを演じた瞬間、ホワイトリングの観客席からどよめきがわいたことを筆者は昨日のように記憶している。

 そのボナリー自身は、今回のシャオ・イム・ファのバックフリップをどう感じているのだろうか。現在ラスベガスでコーチをしているボナリーが、電話で本誌の独占取材に応じた。

ボナリーの思い「観客の記憶に残る何かを残したかった」

「正直に言うと、アダムのことは個人的によく知らないんです。一度だけ顔を合わせたことはあるけれど、言葉を交わしたことはなくて……」とボナリーは少し当惑気味に語り始めた。「バックフリップは今でも禁止技よね?」と確認する彼女に、シャオ・イム・ファが2ポイントの減点を受けたことを告げた。

 長野五輪当時はまだ6点満点システムで、禁止技に対する減点基準も曖昧だった。バックフリップを演じたボナリーはSP6位、フリー11位の総合10位に終わった。

「私にとって長野は最後の大会で、怪我もしていたし、失うものはありませんでした。最後に観客の記憶に残る何かを残したかったの。だから演じたことは、今でも後悔していません」とボナリー。

「アダムは減点を受けても勝つ自信があったから、やったのでしょうね。でも(イリア・)マリニンらが相手になれば、彼もそんな余裕はないだろうと思います」

ボナリーのバックフリップには批判の声が大きかった

 時代的なものなのか、今回のシャオ・イム・ファには好意的な声も少なくない。米国の放映で解説したタラ・リピンスキーも「結構好きかも!」とコメントしている。だが26年前は、オリンピックの競技中にバックフリップを演じたボナリーに対する批判的な声は大きかった。

「時代的なこともあったし、私が女性だったためもあると思います。ノーマルではないことをやると、女性の方が社会の風当たりが強かったです」

 子供の頃から体操とトランポリンでも競技に出場していたボナリーの身体能力の高さは、当時飛びぬけていた。彼女は1990年の欧州選手権で、女子史上初の4回転トウループとサルコウに挑んでいる(いずれも回転不足の認定)。その後、安藤美姫が4サルコウを成功させたのが2002年。ロシアのアレクサンドラ・トゥルソワが4トウループを成功させたのは、ボナリーが初挑戦した28年後の2018年のことだ。

「女子で4回転ジャンプが成功するのに、これほど時間がかかったことには驚いています」と語る彼女のバックフリップは、片足着氷だった。

「バックフリップで大怪我した選手をたくさん知っている」

 だがそれほどの能力を持つボナリーにしても、バックフリップを競技で許可することには懸念を感じるという。

「後ろ向きにテイクオフするので、多くのスペースが必要なんです。選手がみんなこの技を日常的に練習するようになったら、他のスケーターにとって非常に危険だと思います。またいちいち公表されていないけれど、この技に挑戦して大きな怪我をした選手をたくさん知っています。フィリップですら、一度失敗して怪我をしたんですよ」

 フィリップというのは、長野オリンピックで銅メダルを手にした同じくフランスのフィリップ・キャンデロロのことだ。ショーマンで知られ、バックフリップは彼のショーナンバーの見せ場の一つだった。

「堂々とルールを無視」関係者からは厳しい声も

 欧州選手権で2位になったエストニアのアレクサンドル・セレフコは、バックフリップをやる気はあるかと聞かれると、練習してみて肩の脱臼をした経験があることを告白した。

 一方3位だったイタリアのマッテオ・リッツォは「ポイントになるエレメントにするには、危険すぎる。でもたとえばスプレッドイーグルのように、得意だという選手がコレオシークエンスの中にとり入れるのは良いと思います」と意見を述べた。

 最近では片手側転を演じる選手もいるし、ケビン・エイモズのように側宙を演じる選手もいる。マリニンは「ラズベリーツイスト」と名付けた彼独特の技も演じている。バックフリップも一つのバリエーションとして許可しても良いのでは、という声も理解できないではない。

 だがその一方で、「アダムのようなトップ選手が、堂々とルールを無視したのはとても残念なこと」という関係者の厳しい意見もある。「本当にルールを変えたいのならこのような形ではなくて、自国の連盟を通してISUに正式に申請するべき」というのも、確かに正論だろう。どの競技スポーツも、ルールがあって成り立っているのだ。

 一つ確実なのは、ボナリーが言うようにモントリオール世界選手権では、シャオ・イム・ファはおそらくこの技を見せないだろうということだ。宇野昌磨、イリア・マリニン、鍵山優真ら強豪たちが顔を揃えるこの大舞台では、初の表彰台を狙うファにとってマイナス2ポイントは大きすぎるリスクである。

 ペアのレフェリーとして欧州選手権に行っていたISU技術委員の岡部由紀子氏によると、大会中に技術委員会で話し合いがもたれ、ISUは現在バックフリップの危険性がどれだけのものなのか、専門家に意見を聞いている段階だという。本来のフィギュアスケートではないアクロバティックな要素にばかり注目が集まってしまう懸念もある中で、「現時点では違反要素から外しても良いのではないか? という前向きな意見も出ていますが、ISUとしては検討中です」とコメントをくれた。

 ISUが今後どのように対応していくのか、成り行きを見守っていきたい。

文=田村明子

photograph by JIJI PRESS